きっと、神戸でたくさんデートをしてきたであろう大人たちの「神戸でのデートの思い出」を紹介します。あのとき一緒にいた人の言葉や感触、忘れられない景色。記憶をほぐした先に見える街並みや、その人の人生を感じながら、昔の神戸デートを追体験します。

伊藤寛さんの、あの頃のデート

今回ご紹介するのは、神戸を拠点に薬局を経営されている伊藤寛さん。三重県ご出身の伊藤さんは大学を卒業後、製薬会社に就職し神戸へ配属に。実は、伊藤さんには今でもどうしても忘れられないというたったひとりの女性がいるのだといいます。彼女との唯一の思い出の地だという「須磨海浜公園」を訪れ、あの頃から変わらない思いを聞きました。


伊藤さんは現在、神戸市長田区を中心に神戸や大阪で20店舗以上の薬局を経営している。大学を卒業した1970年代から、製薬会社にてプロパー(製薬会社の営業担当)として仕事に勤しんできた。営業成績は好調だったものの、ご自身いわく「理不尽なことは許せない」性格で、上司とぶつかることもあったという。

伊藤営業マンとしては、数字をあげて結果を出せば上司に気に入られて、出世コースに乗れる。でも僕は、たとえ上司であっても納得できないことには首を縦に振らない性格。

それに、成果として目には見えなくてもコツコツ積み上げている部分を評価してもらえたらいいなとずっと思っていて。僕自身が不器用な人間だからこそ、そんな思いを叶えたくて就職した頃から独立を目指していました。

伊藤さんは、実直にコツコツと医師との信頼関係を築きあげてきた。もちろんノルマもあった。接待で毎晩のように夜の街へ繰り出し、朝までお付き合いなんてことも日常茶飯事。

伊藤接待では、フレンチなら「KITANO CLUB」、中華なら「神戸元町別館牡丹園」、それに東門街の高級クラブにもよく行きました。初任給が5万円の時代に、高級料理店でコース料理をオーダーすれば1万円以上。もちろん、デートではなくてすべて仕事ですよ。

そんな多忙な伊藤さんに、デートをするひまなんてあったのだろうか。尋ねてみると、20代の頃にたったひとりだけ、よくデートをしていたお相手がいたそうだ。これまでの伊藤さんの人生で、どうしても忘れられない女性なのだという。

伊藤彼女は僕より3歳年上の、東京出身の人でした。お互いに仕事で忙しかったから、仕事の合間を縫って時間をつくるしかなくて。だから、彼女と会うのはいつもお昼の喫茶店。
行きつけは、須磨の「喫茶 来(らい)」というお店。赤い灯台と海の見えるあのお店でコーヒーを飲みながら、なんでもない時間を過ごしていました。

それにしても、男女の仲が今よりも慎ましい時代だったとはいえ、ほんとうに他に思い出はないのだろうか。

伊藤一度だけ、三宮のダンスホールで彼女とチークダンスを踊った記憶があります。あの頃はまだ若くて、「踊り方はこれであっているのかなぁ」とかドキドキしてぜんぜん集中できなかったことを今でも覚えています。

彼女との思い出はほぼ、「喫茶 来」に凝縮されている。ちなみに当時はおしゃれなインテリアと店からの景色が人気を呼び、休日になると長蛇の列ができていたそうだ。現在はオーナーの息子さんが引き継ぎ、イタリアンレストラン「ピッツェリア オット」に生まれ変わっている。

あの頃以来だという伊藤さんとお店を訪れた。店舗の建つ位置が変わったりして、窓から見えるちょっぴり違うけれど、お店を囲む石垣はそのままだし、赤い「旧和田岬灯台」と松林が懐かしい。

伊藤彼女と別れてから、この場所にはほとんど来れませんでした。思い出は思い出のままにしておきたかったから。

その後、伊藤さんは別の女性と結婚をして4人の子どもに恵まれた。

伊藤お見合いをして親が決めた人と一緒になったんです。婚約が決まる頃、例の彼女は東京に帰ることになって。彼女にはお見合いのことは何も伝えていなかったんだけれど、きっと、僕の心中を察し、気を利かせて静かに身を引いてくれたのだと思います。

その後、一家の大黒柱となった伊藤さんは、10年勤めた会社を退職して薬局の開業準備をはじめた。会社員時代からお付き合いのあった医師を頼りに、家族で長田区丸山町へ。現在も、伊藤さんの会社の拠点となっている。

伊藤はじめは院長先生の私設秘書、医療事務のお手伝いなんかもしていました。当時は保険の制度とかいろんな事情が複雑で、僕自身が薬局の経営システムに納得できていなくて。だから、僕なりの真っ当なやり方で薬局の経営をしたかったんです。

そのやり方を理解し、信頼しあえる医師と出会うこと、経営の安定のために複数の顧客をつくっていくこと。起業するためにやるべきことはたくさんあった。期限は設けず、資金が底を尽きたらあきらめようと決めていた。

伊藤家族を養うために働かなくてはいけないので、これまでの経験を活かして病院専門の経営コンサルタントとして裏方仕事をしながら、少しずつネットワークをつくっていきました。資金が底をつきかけて、これはあきらめないといけないかと思った33歳のときに、ようやく目処がついて独立したんです。

伊藤さんはその後、長田に創設した薬局を拠点に、どんどん事業を展開していった。もともと新しいことにチャレンジすることが好きだから、いつもアンテナを張り巡らせて情報収集。最先端の装置を取り入れて店舗の効率化をはかったり、着席しての接客スタイルをいち早く導入したり。これだ!と思うことは、積極的に取り入れていった。

伊藤開業したばかりの頃は、薬局、病院、多目的ホールを備えた3階建てのビルを建てたいという夢がありました。時代の変化とともにそのかたちは変わったけれど、少しずつ実現しています

現在は、管理栄養士を雇用して食事相談をできるよう整えたり、地域の健康体操を企画したり。今後は薬剤師のスタッフと手を組んで、薬膳カフェをオープンする計画も。

伊藤高齢化する地域の中で複合的なサービスを提供できればと考えています。「ジジババ子ども食堂」や、「注文を間違える料理店」などのように、現在のトレンドを取り入れつつ、そのコミュニティにいると自然と助けあえるような環境をつくっていきたいんです。

ちなみに伊藤さん、デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で開催していた「神戸珈琲学」の卒業生で、その経験を生かして薬膳カフェではコーヒーを担当する予定なのだそう。
そして、奥様とは10年以上前に離婚して、子どもたちは自立し、現在は一人暮らし。

伊藤この歳になってから思うのですが、僕の人生、やりたいことは実現してきたけれど、必ずしもハッピーエンドではないかもしれない。だから、子どもたちには「悔いのない人生を生きろ」と言い続けています。
東京の彼女のことはずっと忘れられない。あのとき一歩踏み出していれば、一緒になっていれば、きっと今はもっと幸せだったのではないかと考えてしまうんです。いつも飲んでいたあのコーヒーの味は一生忘れないんだろうなぁ。


今回のゲスト

伊藤寛(いとう・ひろし)
三重県出身。大学を卒業後、製薬会社に就職し神戸勤務。1984年、有限会社イトーヤクを設立。創業の地であり拠点である長田区を中心に、薬局の営業だけにとどまらず地域の健康に関する活動を展開している。



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